芝居を手にした黄兎の日々

芝居を再び手にした私が繰り広げる、やや外れた日々。
でも、きっと面白い日々に違いない。
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<N>養成所稽古第15回目

今までやってきたエチュード(「泣き」を表現)が今回で終わりになった。何回かやってきた総仕上げといった感じだ。

最初に泣いており、そして、相手との会話の中で、さらにその泣きの感情を掘り下げて爆発・大きくさせる。どんなストーリーを刻むかではなく、どんな言葉をきっかけに自分がさらに深い泣きに入るか、相手を爆発させるかが重要になってくる。

そして、その中で言われたのは、
「過去のできごとや聞いたことよりも、その場で、その瞬間起きたことの方がよりリアルな感情が生まれる」ということである。

うっかりしていて、これには気づかなかった。相手が共感して、自分の話でもらいなきさせるには、相手を巻き込むということが一番早いと思う。

泣きを深くさせるきっかけは作れたと思ったのだが、まだつめが甘かったように思える。
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<N>養成所稽古第14回目

いつものように課題を進めていく。今回から、「おまつり」に動きをつけることになった。実際に神輿をかついでみるのである。(もちろんマイムで。)なかなか面白い。単純に。楽しむだけならばこれで十分だと思う。

そしてテレビドラマの台本へ。そこで、こんな話が飛び出す。キャラクターの作り方というか、どういうものが演じるということかを
「別のキャラクターになること。」
「もしもこのキャラクターが○○だったらどうするか。この場合だったらどうするか。」
という風にとらえている人がいたのである。

これには私も流石に驚いた。ちゃんとキャラクターを作る、というか、考えたりすることがなかったのか、方向が間違って学んだのか…。

芝居をしていくとき、ある役を貰い、そのキャラクターを自分が演じていく。私も、養成所に入る前、芝居を始めたばかりの頃は、台本に書いてあるキャラクターを作らなければと思い、台本のキャラに自分を近づけていかなければと苦労していた。「このキャラはこういうような性格で、こういうことが好きで…」というように、私自身とは別の場所でキャラクターだけを作り上げ、そしてそのキャラクターに自分を近づけていこうというようにしていた。

しかし、これは違うのである。実際、舞台でこのようなことをしていたときは、セリフの入りも遅いし、なかなか上手くいかないし、良くない結果になっていたのである。そして養成所にも行き、その後、これと全く逆の方法をとっていっている。

私の場合は、台本をまず自分自身(特にキャラクターを考えずに)で、ただ内容を伝達するような読み方をしてみる。その後、私自身をベースにして、台本から読み取れる性格などを日常生活の私と変えていく。(テンションとか)そして、しゃべり方など、周りと合わせて稽古していく。(これは今後私がやりたいこと、目標なのだが)

台本から読み取れる特徴などを自分に反映させていくとき、自分の引出しが問われることになる。(「引出しを増やせ」とよくいわれるのはこのためではないかと私は思う。)引出しが多ければ、それだけ幅の広い役をこなせると思うし、逆に少なければ、どんなキャラをやったときも、なんとなくどの役も同じようにしかみえないということになってしまうと思う。

なんにせよ、最低1年は芝居の勉強をしていると思うのに、なぜこんなことが起こるのかなと不思議になってしまった。(やっぱり経験かなぁ…舞台とか。)
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<N>養成所稽古第13回目

「地声でしゃべる」ということがまだ課題の一つとして言われている人がいる。私も時々のどを詰めてしまうのだが、その原因の一つには、「いい声をだそう」「人より自分の方が上手いところをみせてやろう」ということと、「キャラクターを作ろう作ろうとして声を作ってしまう」ということがあると思う。

「いい声をだそう」「人より自分の方が上手いところをみせてやろう」というのは、単に自分が、指摘されている人の人柄だとか、正確だとかが影響していると思う。そういう部分は、自分の芝居にも出てしまう。精神的に、人間的にまだまだ弱い部分があるなあと私も思ってしまう。

「キャラクターを作ろう作ろうとして声を作ってしまう」というのは、意識を変えることによって変わってくると思う。「キャラクター=声」ではないと自分が思っていれば、声を作ろうとはしないと思う。そういう観念があるから、声を作ってしまうのだと思う。地声の方がよっぽど魅力的だと私も思う。だから、思わず自分が声でキャラクターを作った芝居をしてしまうと、恥ずかしくなってしまう。本当は分かっているのにやってしまうと、後でとても後悔する。そういうことが何回かあるのだが、本当に意識していないと、ついやってしまうのだ。

キャラを作るのは声ではない。
よく「キャラクターを作ると自然にその人の声が出てくる」というのを聞くが、それは、キャラクターの性格や話し方を考えていくと、自然に地声なのにそのキャラクターの声に聞こえてくるということがあるのではないかなあと私は思う。

サークルでやった公演でも、「しゃべり方・自分の長セリフのときの間が常に一定」といわれた。私が、そこまでキャラクターの性格を反映できていなかったからだと思う。次の公演ではそこまで作りこめるキャラ作りをしたいと思っている。それが養成所の台本であっても、できるようになればなと思う。
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<N>養成所稽古第12回目

7月に入った。まだいつもの朗読課題をやっている。そろそろ飽きてきた…と思っていたら、今回で終わりになった。次回からはテレビドラマの台本(「ふぞろいの林檎たち」らしい)をやっていく。

今回でこの小説課題は終わるわけだが、最初にうけた駄目出しからあまり進歩のない人が目立つ。最後にもかかわらず、ナレーションでは「文頭で音が上がりきっていない」「ヘタなうねりをつけない」という駄目出しが出ている。一体何をやってきたのだろうと思う。

また、演技面でも、勘の悪い部分が目立ってしまう。ヘタな間が空いたり、雰囲気だけでやろうとする。動きは良くなってきているのだが、セリフや感情がみえてこない。さらに、今自分が客の目にどう映っているのか意識していない人がいる。最後の方は、単に慣れだけで動いているという感じがした。セリフはまだまだ生きている人のものではないだろう。

そして、テレビドラマの台本へ。最初ということもあり、今日は読みだけになった。が、のどをつめているといわれた。無意識のうちに、“芝居をしよう”という感じになってしまっていたのだと思う。まだ甘い。自分ではそうではないだろうと思っていたときが一番危ないといつものことながら再認識させられた。

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<N>養成所稽古第11回目

今回は、私は立ち稽古をやらずに、ナレーションを担当した。一通り自分のやってみたいことはできたと思うが、まだ流れているところ、メリハリをナレだけで、地の文・会話文を表現することが十分でなかったと思う。講師からのダメだしは無し。一定レベルまで(最低限レベルまで)到達している人には、あまり言わないようだ。少し残念である。もう少し、個々を丁寧に観てくれると嬉しい。

そのナレーションだが、他の人が注意されていた事は、自分で抑揚を抑えないということ。他には、頭は高く入ることなどがあった。

今の講師は、抑揚をつけることを要求する講師である。ただ、ここで間違ってはいけないなと思うのは、抑揚と癖は違うということだと私は思う。

よく、自己流でやると変な癖がつくとかきくが、それは、表現の抑揚とうねりとの区別ができていないからではないかと思う。平板でずっと読むより、多少抑揚をつけたほうが、表現に広がりがでる。ただ、「抑揚=うねり」ではなく、「抑揚=高低」だと私は思う。その高低も、適当につければよいというものではない。息が苦しくなったから切るのではなくて、自分の息を把握して、その自分の使える息の中で、文章の意味内容をとって、読むということが必要だと思う。だから、意味内容が合ってないのに、うねっていれば、それはおかしいなと感じるのだと思う。

「抑揚をつけろ」と言われたからといって、全部抑揚があればいいというものではないし、自分の思い込みだけでつけるのもどうかと思う。伝えるときは、感覚でやれるものでは無いと思う。感覚でやれる人もいるが、そういう人は、本当にセンスがあって、自分のセンスを十分に表現できるからだと思う。
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<N>養成所稽古第10回目

今週は、いつものメニューから、小説を3パターンでやった。まず、「地の文、会話文をわけてやる」次に、「会話文のみでやる」そして、「ナレーションが全部を読み、会話文に出てくる人の役は、ナレに合わせて動く」というものである。セリフが無い方が、実は大変。

聴いていると、やっぱりただセリフを出しているだけという感じがする。セリフを覚えることと、セリフを入れるということは違う。とにかくセリフを言おう、言おうとしているのが見えてくる。そうなると、早口になったり、詰まったときにセリフがなかなか出てこなかったりする。

また、それぞれの文の対象相手(セリフをぶつける相手)が違ったら、言い方ももちろん変化する。これは役者だけに当てはまることではない。ナレーションで地の文、会話文を読むとき(朗読するとき)も、会話文でのそれぞれの役の相手も、呼吸も違う。そうなると、同じ音が続くということはない。そこまでしっかりやる必要があるのである。
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<N>養成所稽古第9回目

先週の続きをやる。その前に「おまつり」とエチュードももちろん行われた。

小説は、先週ダメだしをされて終わっていた。必死に探しても見つからなかった猫を発見したときに、前回やっていた表現では何かが足りないという。その足りないものは何かということである。

大事にしていたものや、動物など、いくら探しても見つからなかったものがふいに出てきたとしよう。そのときまずくるものは何か。もうわかると思うが、「喜び」の感情である。どれだけの大きさかは人それぞれだと思うが、ある程度大きなものだろう。それが先週は無かったというのである。

1週間考えて、私も感情が足りないのだと思った。または、その感情の度合いが表現しきれてなく、相手に伝わるほどではなかったか。今回はまずそこをできるように心がけた。

1回目は何も言われなかったが、2回目、中途半端なところからだったせいか、私が忘れていたか、そこの表現が弱かった。それで注意されてしまった。それ以外の部分でも、もっと大きくというか、派手にやってみてと言われた。来週の私の課題である。

かなり細かく、本当に1文1文を大切に描写していくようで、丁寧な表現が求められていた。言われてもすぐにできない人ももちろんいたが、そういうのは現場に出て使えないというようなことも言っておられた。確かにそうだと思う。

そして、反応を使った、相手との感情の共有をしていけということだった。一人だけで感情を持っているのではなく、他に人がいれば、その人と感情や空気を共有するということらしい。確かに空気を感じて顔を見合わせることもあるし、嬉しいことを他の人に伝えようとする。なるほどなと思った。が、過剰にそれを表現するのはどうなのだろうと思った。
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<N>養成所稽古第8回目

いよいよ6月に突入。早くも3ヶ月目である。そして、今日は事務局の方も途中から見学されていた。ときたまあるこういうときに自分をアピールすることも必要らしい。裏目にでなければの話だが。

北原白秋の「おまつり」。この目的は、自分の息の限界を知り、自分の息をコントロールできるようになることである。最初はなかなか自分の一息をつかめなかったが、やればやるだけつかめるようになってきた。これがわかると、次は文章での応用ができる。

意味内容を伝達する為に、係り受け、文の区切り方を見る。そして、自分の一息でいけるところはそのまま、息が足りなくなるようなら、その文をさらに細分化して、変なところで切らないようにしながら調節する。これで少しは単調な読み方ではなくなったように思える。基本は平板で取り、その後、情景や伝えたい強さによって、高低をつけ表現していく。これを試してみると、思ったより基本からできたと思う。

次に、小説を使った簡単な芝居をやる。他の人を見ていると、動きがぎこちない感じがする。まがりなりにも舞台になったことが無い人がほとんどである。そのためか、意識していないからか、自分が今どう見えているのかわかっていない感じがする。また、自分では動いているつもりなのだが、半径1メートル位しか動いていない。そのため、ほとんど動いていないように思える。動いていいのかどうなのか迷っているように見えてしまう。思いっきり動いてみることも必要である。

私もやる。姿勢、動き、手の位置、目線を今回は気にした。最低限の部分である。また、動きが単調にならないように、途中で止まり、少し早く進んでみるということもしてみた。講師の先生も変化があって良いということだった。

この動きも、ただ大げさに止まればよいというものではない。「気分の変わり目で動いたり止まったりする」といっていた。気分の変わり目、感情があって、行動にでるということだと思う。動きと感情の関係性、先に動きが出て、そしてセリフが出てくるのだと思う。

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<N>養成所稽古第7回目

いつものメニューを淡々とこなしていく。あまりやったことのないものなのに、基本的な「おまつり」はテンポよく進んでいく。こういうのがあると気持ちがいい。

そして、小説を3役にわけてやっていく。今回は小説の地の文をよむナレーションをやった。特に注意されることはなかったが、ただ読めば良いのではなく、役をやっている人と合わせてやっていく部分があった。

役はやらなかったのだが、ダメだしに対してすぐに反応できてない人が多いように感じられた。頭でわかっているけれど、表現できない、するのが難しいというのではない。それ以前に、講師が何を求めているのかすらわからない人がいるように思える。

講師の言う通りにやればよいということはないが、ダメだしをして、次にどうしたらそのダメだしを改善できるか、それをあまり考えていないような気がする。その改善の方法さえ、講師に求めている。講師の出した課題をクリアすればよいというものではない。意識が低いのか…。

体を動かして表現する部分もぎこちない。意識して体を動かそうとしていないように見える。動かそうとしていたとしても、自分で動かすということが難しそうである。基本的な体の使い方、柔軟が十分ではないのだろうか。こういうとき、声だけの芝居が上手ければよいものではないなあと思う。
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<N>養成所稽古第6回目

軽い運動は最低限のものになっていく。その代わり、北原白秋の「おまつり」が加えられた。この他にも「五十音」をやっている。

「おまつり」はリズムにとらわれず、自分の呼吸で読んでいくこと。「五十音」は「あめんぼあかいなあいうえお うきもにこえびもおよいでる」という一行を一息で言えるようにすること。が課題となっている。
どちらも、自分の呼吸量を知り、自分の呼吸を使って読んでいくということが目標となるようである。そして、少しずつでも自分の呼吸量を強くしていこうということらしかった。

よく句読点で切らなくてもよいということを言われるが、その句読点は、自分の呼吸量と関係してくるのだと思った。ただ、自分の呼吸量、息つぎができればどこでもきればよいというものではない。そうしてしまうと、今度は意味内容を伝達できなくなってしまう。(全く意味が通じないところでも一息の呼吸がなくなってしまえば、そこで切ってよいというわけではない。)

その部分の兼ね合いを、台本をよく読みこんで、自分の呼吸量を多くしていく必要があると思う。

そして次にある小説の一部分を朗読。そしてその後会話文のところと地の文(会話文以外の部分)にわけて読むことになった。登場人物が2人なので、語り(地の文)を入れると3人になる。

私は会話文での役になった。その最後で、私の役だけが森の中に取り残され、もう一人の役の人に、呼びかけるところがあった。

今まで遠くに呼びかけるときでも語尾を切って距離感を出していた。しかし、この場合、森の中で、どこにいるかわからない人に向かって話し掛けるという設定なので、語尾は切らないでといわれてしまった。

確かに森の中で響いた感じをだすために語尾を延ばすということは一つの技術としてあるなあと思った。ただ、やりすぎると
「私はー猫専門のー探偵でしてねー。猫とー猫が感じる…」
という風になってしまう。(これは私の読む部分ではないのだが、実際にこういう風にのばしながらうねって読んでいた人がいた)これでは、どこを立たせたいのか、どこになにがかかっているのかわからなくなってしまう。
こういう風にならないように、文を読んでやっていきたい。
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よく読まれてます☆ どうでもいいことから壮大なことまで答えてます。











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